お店の二代目・三代目 その9 うさぎや 阿佐ヶ谷店
うさぎや 阿佐ヶ谷店 (阿佐谷新進会商店街)
二代目 瀬山妙子さん
三代目 瀬山信行さん
職人さん:今野康―さん
2015年08月01日(土)
「うさぎや」は、JR阿佐ヶ谷駅の北、高架線沿い新進会商店街の中程にあります。ちょっとクラシックなガラス引き戸の前には、いつも順番待ちのお客様。「地域のお客様に美味しい和菓子を!」と、人と人との繋がりを大切にしてきた「うさぎや」ならではの風景です。「うさぎや」の店主は二代目の妙子さん。元々は1913年(大正2年)創業の上野黒門町のロウソク屋でしたが、電気の普及を機に、「食べてなくなるものであれば、つぶれないだろう」と和菓子屋を開業。妙子さんの母・龍さんも叔父も、家族皆で働きました。その後、龍さんは蔵前の材木屋に嫁ぐも、第二次世界大戦の大空襲で全てを失いました。でも、龍さんには和菓子店で培った腕がありました。上野黒門町時代の職人さんに声をかけ、西荻に一軒間口の和菓子店を開いたのは昭和25年、妙子さんが中学生の時でした。戦後の統制下、砂糖、小豆、米などの確保の難しい時代に「本物の材料」しか使わなかったことが自慢の母でした。7年後の1957年(昭和32年)、現在の阿佐ヶ谷に移転。「うさぎや」阿佐ヶ谷店の誕生です。
お客様の注文は、どら焼が圧倒的に多いのですが、「うさぎやはどら焼き屋だと、思っておられる方が多いのですが、季節の生菓子、餅菓子が自慢の和菓子店なのです」と妙子さん。店頭のカウンターには色とりどりの麗しい和菓子が並びます。でも、どれもみな、1つずつ。実はこれは見本で、「出来立ての味をお持ち帰り頂くために、商品は奥からお持ちするんですよ」と妙子さん。老舗のこだわりには脱帽です。
家族で助け合ってお店を守るスタイルも、上野黒門町時代からの「うさぎや」の流儀。妙子さんの弟今野康一さんは菓子職人、三代目の信行さんは老舗経営のノウハウにIT世代の発想を取り入れ、家族で老舗の味を守つています。「うさぎや」は上野、日本橋にもありますが、暖簾分けではなく、いずれも親類のお店だそうです。
(平成25年9月1日発行の第259号に掲載)
二代目 瀬山妙子さん
三代目 瀬山信行さん
職人さん:今野康―さん
2015年08月01日(土)
「うさぎや」は、JR阿佐ヶ谷駅の北、高架線沿い新進会商店街の中程にあります。ちょっとクラシックなガラス引き戸の前には、いつも順番待ちのお客様。「地域のお客様に美味しい和菓子を!」と、人と人との繋がりを大切にしてきた「うさぎや」ならではの風景です。「うさぎや」の店主は二代目の妙子さん。元々は1913年(大正2年)創業の上野黒門町のロウソク屋でしたが、電気の普及を機に、「食べてなくなるものであれば、つぶれないだろう」と和菓子屋を開業。妙子さんの母・龍さんも叔父も、家族皆で働きました。その後、龍さんは蔵前の材木屋に嫁ぐも、第二次世界大戦の大空襲で全てを失いました。でも、龍さんには和菓子店で培った腕がありました。上野黒門町時代の職人さんに声をかけ、西荻に一軒間口の和菓子店を開いたのは昭和25年、妙子さんが中学生の時でした。戦後の統制下、砂糖、小豆、米などの確保の難しい時代に「本物の材料」しか使わなかったことが自慢の母でした。7年後の1957年(昭和32年)、現在の阿佐ヶ谷に移転。「うさぎや」阿佐ヶ谷店の誕生です。
お客様の注文は、どら焼が圧倒的に多いのですが、「うさぎやはどら焼き屋だと、思っておられる方が多いのですが、季節の生菓子、餅菓子が自慢の和菓子店なのです」と妙子さん。店頭のカウンターには色とりどりの麗しい和菓子が並びます。でも、どれもみな、1つずつ。実はこれは見本で、「出来立ての味をお持ち帰り頂くために、商品は奥からお持ちするんですよ」と妙子さん。老舗のこだわりには脱帽です。
家族で助け合ってお店を守るスタイルも、上野黒門町時代からの「うさぎや」の流儀。妙子さんの弟今野康一さんは菓子職人、三代目の信行さんは老舗経営のノウハウにIT世代の発想を取り入れ、家族で老舗の味を守つています。「うさぎや」は上野、日本橋にもありますが、暖簾分けではなく、いずれも親類のお店だそうです。
(平成25年9月1日発行の第259号に掲載)